劇評

「人形劇フェスティバル2006年さっぽろ冬の祭典」を観て

                                            俳優・ヨミガタリスト 松本直人

<はじめに>
 後半週、教文での2日間のいずれも午後のステージを観ての雑感である。 まずはとにもかくにも、ベテランから初
心者までの大人数による大型人形劇の制作上演を、およそ四半世紀にわたり毎年続けている札幌人形劇協議会さ
んに敬意を表する。 しかも常に新しい力を取り入れていこうという姿勢があるだけに、まだまだいろんな可能性を秘
めているのだと思う。 その可能性を開く方向に拙稿が微力ながらも役立てばうれしい。


<ひとりぼっちの狼と七ひきのこやぎ>
 改訂再演とのこと。 以前の作品は未見なので、今回の作品から受け止めたことしか語れないことをまずはご容
いただこう。 基本的にお話には破綻はないとは思うものの、何かしら不満が残った。「もったいない」という印象だ。
その不満の要因を考察してみた。
 6人の持つ、虫や蛇や蝶にも見えるパーツが空間構成で狼になる。 そんなシーンで「ひとりぼっちの狼と七ひきの
こやぎ」は始まった。 こういう「モノに命を吹き込む」のは、いわゆる一般的な人形劇とは違うけど、極めて人形劇的
な手法の一つだと思う。 大好きなシーンのひとつだ。
 けれど果たしてそのシーンはこの芝居としてうまく機能したのか。 それにまず疑問を感じざるを得なかった。 ドラ
マの中核部分は狼がこやぎたちと過ごす時間。 そこで芝居は、天真爛漫なこやぎたちに翻弄されて結局こやぎを
食べるに至れない、狼の反応を中心に展開していく。 やってきた目的は果たせなかったものの、七匹との素敵な時
間によって、多分、なんだか元気をもらって、それでその後もひとりぼっちでも菜食主義になってでも、ひとりぼっちの
狼でも明るく生きていけそうだという感じで終わっていく。
 だからお話は主として狼目線。 ところが最初の空間構成シーンは、得体の知れない存在として狼を示唆している
わけで、なんかちぐはぐに思えたわけ。
 後に演出に疑問を投げかけてみたら、「動物たちの視点のつもり」とのこと。 最初の方のシーンでは小鳥が狼と
話をして逃げていくだけで、タヌキほかの動物たちは狼に直接は会ってない。 だから確かに「得体の知れない存在」
として感じているというのはありうる。 でも彼らはそんな風に恐れるのではなく、「狼はぼくらを食べる」という情報
だけに恐怖していた。 それは「得体の知れない恐怖」とは異質だろう。
 最後の孤独な狼のシーンに至っては、動物たちは散々と狼の音楽を楽しんでおきながら(こやぎたちと同じ合いの
手を入れるっていうのは、まあ遊びだからいいとして)、狼がなんか言おうと手を挙げた途端に蜘蛛の子散らすように
逃げてった。 それもまた得体の知れない恐怖とは違う、ある意味ではただの仲間はずれでしかない。
 もちろん、そういう作りはそれはそれでありだ。 でもそうもっていくのなら、冒頭シーンはむしろいらなかったので
はないか。 残念だけど。
 でもそのあたりには、実はもう少し探れるところがあったんじゃないかと思う。冒頭シーンが有効になるような工夫。
最後の最後で狼のサックスの音は遠ぼえと重ねられていて、それが狼の音楽との暗示ともとれるようにしているのだ
が、そのようにゆるやかにむすびつけるなら、小動物たちもそれをそのように見るような聞き方をすべきではないの
か。狼のサックスは遠ぼえ。怖いけどなんか魅力的。そんな風に聞いている小動物たちの目線があると、冒頭の空
間構成シーンともつながったように思う。
 あるいは逆に現状の流れで冒頭シーンを活かすなら、狼自身にとっての内なる「得体の知れない」衝動あたりを象
徴させることも可能だったのではないか。 否定しても消えない「こやぎたちを食べたくなる本能」として。少なくとも
観たステージではそうはなっていなかった。 こやぎたちとのつながりに何かを得た狼は、それ故に「他のものたちと
の関係の中で身をひいた」のであって、自らの衝動の危険性からこやぎたちを守るために去ったのではけっしてなか
った。
 さて、狼目線でありながら、そのような狼自身の葛藤が浮き立ってこなかったのには、こやぎたちが「元気さ」だけ
で狼を圧倒し続けたせいもあるのではないか。 いや実は細かくは「元気さ」だけではない表現もあったのだが、「元
気」以外のポイントがあまりフォーカスされずに進行してしまって、全体的に「元気に圧倒されて」狼がほだされたとし
か見えなかったのだ。

 狼の操作。 人形の使い方について評するのはもっと他に適任な人がいると思うのだけど、狼の三人使いっていう
のは面白かった。 面白いっていう言い方も変だけど、気がつくと二人になってたり一人になってたり。その段取りが
とってもスムースで後から気付いてびっくりした。 2回目に観たときには、なんとかどこで人数変えるかも意識して見
てやろうと思ったが、ちょっと気を許すと見逃したりしちゃったほど。 素晴らしい。
 1点だけ狼の動きに難をいうと、山を登っていくときの手と腰と足の動き。 なんか不自然。 微妙に不自然。 三人
の足場の問題かとも思うが、どうせ不自然になるなら、もっと遊んでしまったほうがいいのに、と思った。

 こやぎたち。 あの時間内で七匹全部の個性を立たすのは難しいのかな。 かろうじて一番上と一番下、それと絵
の上手い子。 そのくらいの区別がついただけで、後は終始元気だけを演じている感じだったなあ。 操手の巧拙だ
けの問題じゃないはずだ。 七匹いることの意味みたいなものをどこかで感じさせてほしかった。 演出的には図ら
れたのかもしれないが、熟成期間がなかったということか。 あるいはとにかく基本の「ひたすら元気」をはずさない
ようにと、経験浅い人たちへの配慮があったのかもしれない。
 けれど、元気さだけを要求されたにしても、例えば狼が去った後の戸外での会話で、母やぎの声がこやぎたちの
歓声にかき消されてしまうというのは問題だ。 どこかにそういう事態を避けるスイッチがほしいところ。 確かに父母
ですら制御しきれない元気さこそが狼に素敵な時間を与えたわけだから、「元気第一」という基本方針は一つの正解
ではあろう。 しかしだからこそ、それを殺さないけど有効なスイッチ、例えば父母の持つ存在感から来る何かが構
成されて良かったんじゃないかと思う。
 どうやればそれが成立するのかまでは簡単には思い付かないけど、きっと何か方法はあるはずだ。 そんな方向
に一歩突っ込めれば、それだけで元気だけじゃない存在になったと思う。 元気さだけが狼の食欲から救われた唯
一の理由になってしまうとすれば、このこやぎたち、悪意ある狼が来たときにはやっぱりやばいよ。

 そういえばこやぎたちの最終シーンで、父母やぎの「???」という思いが「どういうことだ」という類いの同じセリ
フの繰り返しで強調されていたが、せっかくのリフレインや、その前、母やぎが帰ってきたときに予想外の状況になっ
てるってあたりなども、いろんな遊び方ができたと思う。なんとなく元気さと遊びはこやぎに任せて、父さん母さんはつ
なぎに徹したっていう感じだったのかなあ。それももったいないと思った。

 もうひとつ細かいことを書いておこう。 父親やぎが戻ってきたとき、狼は最初窓から逃げ出そうとする。 それを一
番のチビやぎが狼を玄関側先頭に引っ張っていくことで無意識に防ぐんだが、これ、なかなかいい演出。 でもその
流れにはまったくセリフがなく、他のやりとりの間に進行。 あえて目立たないようにさせたのだと思うし、だからこそ
大好きなシーンになったのだが、惜しいのはチビやぎの意思がなんだか曖昧だったこと。
 引っ張ってって先頭に立たせて「それで終わり」って感じで他のこやぎの中にまぎれていったのね。 意思としては
守ってほしいという風情だったとは思うのだけどどこか明確じゃなかった。 それを強く示すには、先頭に立たせた後
ずっと狼の背中にしがみついているとか、そんなコミュニケーションの継続が必要だったんじゃないかなあ。 そのあ
たりが少しでも出てくれば、「元気さだけ」じゃない何かもはっきりしたのじゃないだろうか。 以下の主題にもかかわ
ることになってきちゃうかもしれないけど。

 作品の主題について。 いろんな問題が噴出している子どもを巡る状況に対する今日視点で捉えた場合と、子ども
たちに夢を与えるという視点で捉えた場合とで、大きく評価は分かれそうだ。
 「あんな得体の知れないものに簡単に心を開いてはいけない」という今日的観点もあれば、「素直な元気さは肉食
動物も菜食主義に変える」というような、動物界の食物連鎖なんかも無視して捉える観点もあるだろうからだ。
 ドラマがしっかり積み重なった演劇は、ある種、画一化されやすい論点を超える力を産むものだと筆者は信じてい
るが、残念ながら今回はそこまで力あるドラマにはなっていなかったわけで、どちらに転ぶかはやっぱり観る者の考
え方次第と言うしかない。
 筆者自身は、人は信頼を前提として社会を構成していると考えたいし、そのための表現を受け止めたい。 だから
こそ無理解な小動物たちでも狼の音楽は楽しめたのだとすれば、そこから始まる新しいドラマに期待したい。 観客
それぞれの心の中で続いていく、菜食主義になったひとりぼっちの狼がたどるであろうその後のドラマに。 そんな
明るい方向の示唆を、もうほんの少しでももらえていればなあとやっぱり思うのだけれども。


<ピーターパン>
 休憩を挟んで引き続きピーターパン。 子どもたちにこの長い時間設定はどうなんだと心配もしたが、案外しっかり
ドラマに入り込んで観ていたね。

 展開がうまい。 いくつかのグループを短いシーンのつなぎで何度か小出ししつつ、それが合流したりまた分離した
りする小気味いい展開の中で、こちらもけっこうな数の登場人物なのだが、それぞれの個性をしっかり観客に感じさ
せてくれた。 こやぎたちの場合、区別がつきにくいのは人形のせいもあったと思うが、こちらでも海賊あたりはあま
り人形として際立った違いはないのに、いつのまにかしっかり個性で受け止められるようになっていたのだから、こ
れは構成としてうまかったってことだよね。
 ただこちらも惜しむべき点はあった。 冒頭シーンだ。 海賊たちの唄。 録音の歌声に重ねて舞台上の役者たち
も歌うのだが、その歌声の勢いに比べて、とにかく海賊の人形たちの動きが小さい。 後にこのシーンは子ども達の
夢だと明かされるのだが、それならなおのこと、しっかり海賊たちを元気いっぱいの魅力的な小悪党にしてみせてほ
しいところ。 フック船長の激しい力業でやっとその風情が感じられる程度なのだから、そこまでいけなくとももっとも
っと海賊達、遊びまくって動きまくって良かったと思う。

 そんな不安な出来のシーンから始まったが、しかし、そこから後は気になるシーンはまったくなかった。 残念だった
のはフック船長の声がかなりつぶれていたことくらい。 子ども役の泣き声にすっかり負けてたからね。 これはもっ
たいなかった。 そのあたり周囲もうまく対応してあげられればいいのに。 まあそういう対応はそれなりの経験がな
いとできないだろうけどね。
 そんな点をのぞきピーターパンについては、展開の小気味良さでしっかり冒険活劇として楽しませてもらった。 ワ
ニはいいなあ。 ああいう役って大事だね。

 まあせっかくなので、細かいことをもう少し書いておこう。 ウェンディたちが家から出発して空を飛んでいくとき、
まず部屋の大道具が消えてから彼らが下手奥にはけて、そして下手前に出てくる。これがなんだか無駄に待ち時間
を作ったように思えた。 確かにその後いくつかのグループごとに登場してくるとき、前舞台は下手から上手へ、後舞
台は上手から下手へ動くという使い方に準じていくための最初の動きとして選択されたものだろうが、だとしてももう
少し「待ち」になるのを避ける方法はあったろうと思う。
 それともうひとつ。 これはあまりにも細かい点なのでどうでもいいのかもしれないのだが、ウェンディきょうだいと
ピーターパンが海賊の大砲に攻撃されたとき、ピーターパンだけが下手奥に飛ばされて、きょうだいたちは上手方面
に飛ばされたんだよね、たしか。
 ところがその後の再登場では、どうやらばらばらになったのは弟たち2人だけだったようなのね。ピーターパンはウ
ェンディをティンクに任せて、弟たちのほうに来たと判断できるから。 とすれば、ばらばらになる段階でもそうやって
男の子二人だけが違う方向に飛んでいくっていうことにしたほうがいいと思った。 そうすることで、冒頭の夢のシー
ンともシンクロするしね。 何か技術的な理由とかあったのだろうか。

 さて、細かい話ばっかりで恐縮だけど、作品テーマについて最後に少しだけ書いておく。 冒険活劇としては、はら
はらわくわくどきどきすればもう十分なのだけど、そこはさすがにピーターパン。 どうしても永遠のテーマがあるから
そこんところをなおざりにするわけにもいかない。
 そんなわけでこの作品での結末を振り返ってみよう。 娘を持ったウェンディ。 その娘のところに永遠の少年・ピ
ーターパンが訪れる。 子どもの心を失わないウェンディには今も彼が見える。 話もする。 で、ウェンディの娘の最
後の言葉が「いつまでも忘れないでね」。それに答えて「いつまでも窓をあけておくわ」とウェンディ。
 うーん。 いや、母親としてはいつまでも窓をあけておくのはいいんだけど、それをこれから出かけるという娘に言う
か。 言ってどうなる。 そういう問題じゃないだろ。 自分とは隔絶した世界へ行ってしまっていつ戻ってくるかも分
からない子を待ち続ける母親の愛こそが「窓を開け続ける」という行為となるのであって、ピーターパンが見えるウェ
ンディは、そんな母親たちのようには待たなくていいはずだ。 ネバーランドと現実世界との垣根もまた、ウェンディ
(たち)によって低くされていたのだ、というドラマがあったように見せてくれてたらカッコいいのに。 たぶん娘と母
ウェンディの短いやりとりだけで、そんなことにしちゃう方法もあったんじゃないかしら。


<最後に>
 確かにキャリアに差のある人たちの寄り合いとならざるを得ない、というより常にあえてそういう場であろうとする冬
の祭典作品。 そういう中でどこまでをどうクリアするかは、これからもいつでも問題であり続けるのであろう。 しか
しそこから逃げない姿勢にこそ拍手である。